江戸時代より尼崎では、農家が日銭を稼ぐ仕事として稲わらで菰縄をつくっていました。
その菰縄を買い取り、伊丹・灘の蔵元へ納める商いがありました。
彼らは「荒物仲間(あらものなかま)」と呼ばれ、文政7年(1824年)には尼崎に17軒を数えたといわれています。しかし、明治初期に需要が減ってくると、廃業に追い込まれたり転業する荒物仲間が増え、数件を残すのみとなってしまいます。
この頃も、岸本家は農業のかたわら菰縄を買い集めて蔵元へ納める仕事をはじめました。
明治33年(1900年)に創業者の岸本吉二が岸本吉二商店を創業し、本格的に菰縄の製造を手がけるようになりました。
江戸時代より尼崎では、農家が日銭を稼ぐ仕事として稲わらで菰縄をつくっていました。
その菰縄を買い取り、伊丹・灘の蔵元へ納める商いがありました。
彼らは「荒物仲間(あらものなかま)」と呼ばれ、文政7年(1824年)には尼崎に17軒を数えたといわれています。しかし、明治初期に需要が減ってくると、廃業に追い込まれたり転業する荒物仲間が増え、数件を残すのみとなってしまいます。
この頃も、岸本家は農業のかたわら菰縄を買い集めて蔵元へ納める仕事をはじめました。
明治33年(1900年)に創業者の岸本吉二が岸本吉二商店を創業し、本格的に菰縄の製造を手がけるようになりました。
それから100年以上がたちます。
戦時中は菰樽が使われなくなり、休業を強いられました。しかし、昭和24年(1949年)に、蔵元から「もう一度、菰縄をつくらないか」と声をかけていただき、何もない状態から材料や人手を手当てし、菰縄づくりを再スタートさせました。
昭和38年(1967年)には、1.8リットルの陶器製菰樽を発売。菰樽といえば杉樽でできた四斗樽でしたが、陶器に菰を巻いたミニ菰樽は贈答用として売れはじめ、ヒット商品となりました。50年以上たった現在でもロングセラー商品として300ml・900ml・1800mlとさまざまな大きさの商品がつくられています。
平成になると、日本酒需要の減少とともに菰樽の需要も低迷、さらには阪神大震災の影響もあり、兵庫県を中心に10軒ほどあった菰縄をつくる会社も、現在は尼崎に2社、全国でも3社のみとなっています。そのなかでも岸本吉二商店は一番の大手として、神社に奉納されている酒樽など、現在国内で見かける菰樽の半数以上を製造しています。
それから100年以上がたちます。
戦時中は菰樽が使われなくなり、休業を強いられました。しかし、昭和24年(1949年)に、蔵元から「もう一度、菰縄をつくらないか」と声をかけていただき、何もない状態から材料や人手を手当てし、菰縄づくりを再スタートさせました。
昭和38年(1967年)には、1.8リットルの陶器製菰樽を発売。菰樽といえば杉樽でできた四斗樽でしたが、陶器に菰を巻いたミニ菰樽は贈答用として売れはじめ、ヒット商品となりました。50年以上たった現在でもロングセラー商品として300ml・900ml・1800mlとさまざまな大きさの商品がつくられています。
平成になると、日本酒需要の減少とともに菰樽の需要も低迷、さらには阪神大震災の影響もあり、兵庫県を中心に10軒ほどあった菰縄をつくる会社も、現在は尼崎に2社、全国でも3社のみとなっています。そのなかでも岸本吉二商店は一番の大手として、神社に奉納されている酒樽など、現在国内で見かける菰樽の半数以上を製造しています。